ショートアニメーション千夜千本

短編アニメーション作品を紹介してゆきます。まだ見ぬ作品に触れる機会にして頂ければ幸いです。

『Look at Me!』飯田千里【87夜目】


騙されたと思って、フルスクリーンで観て欲しい。スマホ? だめだめ。家で一番大きなモニタテレビを用意して下さい。

藝大院の卒展で、初めてこの作品をスクリーン鑑賞したときの衝撃が凄かった。めちゃくちゃ大画面映えしていたのだ。大きなスクリーンにふさわしいアニメーション作品って……緻密に描き込まれた背景美術や美しすぎるキャラクターの作品、CGばりばりのチャンバラ・サイエンス・フィクション、あるいは作家の手触りが伝わってくるような「紙」に特化した匠の極み的アーティスティック作品……だとばかり思っていた。けれど、この作品には驚かされた。YouTubeで観ると、一件コンパクトに思えてしまうんだけれど、これが大スクリーンで解き放たれた途端……その動きの大迫力ぶりに圧倒され、極彩色のグラフィックはさらに映え、完璧にシアターを支配していた。飯田作品では『JAM FISH』のようなセンスの光る作品が僕は好きだけれど、スラップスティックなカラーの色濃い『Look at Me!』は、ぜひ大画面で見るべき作品だ。とにかく大変身していたのだ。むしろ、それを想定して作られている映画なのではないか。

ラグタイム風BGMからスタートする感じも、昔ながらのアニメーションを意識していて楽しい。「脱ぐんかい!」「パ◯◯かい!」みたいな子どもがワーキャーする仕掛けもたくさん盛り込まれている。オチもいいよね。女子高生って、選べないのだ。

『JAM FISH』飯田千里【86夜目】


子どもの頃から、車に乗るのが苦手だった。中は狭いし、移動は長いし、臭いはするし、退屈だし……。愛知方面の田舎に帰るときの、東名高速は特に嫌いだ。渋滞がものすごかった。今でも電車旅が好きなのは、クルマと比べて車内が広くて、降りようと思えばいつでも降りられるところだ。自分が運転する立場になれば、変わるのかもしれないけれど……。

高校の卒業制作として完成した『そうじきとおんなのこ』に続き、藝大院アニメに進学した飯田の一年次作品。さすがに昨日紹介した作品よりも内容がグッと大人びていて(大人の視点を獲得していて)、ストーリーテリングのギアチェンジがなされている。イラストレーションは相変わらず可愛らしいし、『そうじき〜』よりも更に洗練されている。けれどやっぱり一番書きたいのは、この着想のユニークさだ。「あぁ、わかる! わかる!」って膝をパンパン打ち鳴らしてリズムを刻みたくなるくらいの、「かつて一度見たことがある光景」であり、「かつて微睡みながら見たことがある色彩」だ。魚のキャラクターに置き換えているのもすごくいいし、終盤、光が一瞬ホンモノの通りに置き換わるのも抜群だ。事故のシーンが巧みにエグすぎないのもいい。とてもいい「コード」を持っている作家さんなんだな、と思う。

最後の、田舎に着いて(そこまで退屈だった時間を一瞬で忘れるかのように)笑顔で駆け出すふたりに、昔の自分の想いがありありと蘇った。こういう形で「感動」を提起させてくれる作品って本当に強いと思う。いいなァ……。音楽というか、音の付け方だけは、それほど飛躍がないかもしれない(うっかり音無しで最初鑑賞したのだが、まったく問題なく見ることが出来た。そこも強みの一つだと思う)。

『そうじきとおんなのこ』飯田千里【85夜目】

飯田千里は、とびっきりユニークなアニメーション作家だ。

ぶっとい線、記号的かつ親しみやすいイラスト、ビビットな色彩、そしてものすごくシンプルかつ……エンタメ感の高いストーリーテリング! こういう、ごく初期の作品から既に「観ている人を意識して」いて、尚且つ「それに応えようとする」サーヴィス精神があって、そしてそれを達成することが出来る「才能」(あるいは「天性も含んだ技術」)をも持ち合わせた作家って、実はそう多くない。さらにさらに、老若男女、誰に見せてもその「キーワード」を共有できるものが作れて、そしてそれが同時に作家の「作りたい」ものにもなっているって、これはもう……素晴らしいことだと思うのだ。

誰にでも共感できる「部屋の片付け」を皮切りに、なぜか山村浩二みたいな超ダイナミズムあふれる展開にまで駆け上がっていくアニメーション作品『そうじきとおんなのこ』は秀作だ。飯田の描きすぎないイラストからは、その大胆不敵さすらも、一種の迫力になってこちらに伝わってくるようだ。

今回初めて知ったのだが、この『そうじきとおんなのこ』……何と高校の卒業制作だとか。ワオ!

『lilac (bombs Jun Togawa)』ONIONSKIN【84夜目】

結局のところ、ONIONSKINは、作品における「感情」の露出を拒み続けてきたアーティストだったのだと思う。ここ数日観てきたような作品で行われているのは、「表」に出てくる表現技法としての…つまり単にテクノロジーとしてのアニメーション表現の追求。そして音楽から引き出されるテーマ、情景への献身。参加アーティストにも求めるのは常にそれだ。そこに一切の、一個人のアーティストとしての私情は挟まなれない(むしろ排除する)。そこから生まれる一種の無菌的なものが、ONIONSKIN作品のハイセンスさや、クールさを感じさせていたのかなと思う。

けれど、この作品は違う。確かANIME SAKKA ZAKKAだったかな……。この作品に初めて出会ったとき、ようやく僕はONIONSKINのフロントマン・田村聡和の表現の「芯」を知ったのだ。

それは、「死」、そのものだった。

モノトーンの、レンズでも紙でも絵の具でもなく、電気信号である黄ケーブルを通して映し出される少女の曖昧な肉体と精神。かすかな水面を隔てて、彼女はアニメーションによって死体と生体に引き裂かれる。その静謐さ、描かれる一種の「愛おしさ」に、ぞくぞくぞくっとした。同時に、これまで自分には見えていなかった、田村の(ONIONSKINの)作品の大きな共通点に気がつかされたのだ。そうだ。これまで観た作品にも、この「死」へのまなざしが含まれてはいなかったか?

『おわかれ』でキャラクターたちがこちらへ手を振ったとき、その間に流れていたのは彼岸と此岸の境ではなかったか。『都市計画』の均一な心地よさは、生き物の気配がないことからではないか。『endless summer』で小野ハナから田村が引き出したのは、暗く深い闇から手を伸ばす死への渇望ではなかったか。『煙夜の夢』で絶望的なほどにやっかいな表現を駆使してでも表したかったものは、そのものずばり涅槃図のアニメーション化だったのではないか。

まったく無関係だと思われていた作品群に、ふとある物差しを当ててみると――途端にすべてが繋がってゆくことがある。一見ではわからないリンクに気づくこともまた、作家単位でアニメーション作品を追いかけているときの魅力のひとつだ。

ONIONSKINは現在に至るまで様々なクライアント・ワークを送り出し続けていて、田村のソロでのディレクション・ワークも数多い。あのゲスの極み乙女。のMVとかも作っていたりします。

『煙夜の夢 a,香水壜と少女 b,空虚な肖像画 c,煙夜の夢(夜が固まる前)』ONIONSKIN【83夜目】

鑑賞した当初、度肝を抜かれた作品。

森は生きている(というバンド名です)の17分にわたる組曲にMVをつける、という「ヤメテアゲテヨ!」みたいな依頼内容もさることながら、作り上げてきたのはまさかのワンシーン・ワンカット。しかもスライド板を、素手で、休むことなく、ずーっとちょっとづつ動かしていくという……。一度失敗したらもちろん撮り直しだろう。気の遠くなりそうなMVだ。

最大3コマ(ですよね?)で表現されるアニメの動きは、スライド板が差し掛かる手前まではおぼろげだけれど、重なり始めた途端に突然生々しく、まるで這うように蠢き始める。各所によって動きの大小がはっきりとつけられていて、手で動かしているがために、その動きの速度が一定していないのもまた、独特の「生き物感」を醸し出す。いや、これは「生き物」なのか? かえって“自然”とも違うような……。全体のモチーフも“四季”で、屏風絵のような、仏画のような……あれ、ああいう絵の名前って、何だっけ……。

技法の取捨選択に「さすが」感はあるものの、実際に表現しているものは、またしても過去との連続性がない。さすがにクライアント・ワークっぽすぎるだろう、ONIONSKIN。と、思っていた……(その答えは明日!)。

『endless summer』ONIONSKIN【82夜目】

自分は、『フミコの告白』〜『Airy Me』の辺りで、『ほしのこえ』『ホーム』以来続いていた日本の「自主制作アニメーション」の系譜は“一旦”途切れていると思うんだけれど、この作品に携わる小野ハナは、正にその「途切れた後」から頭角を現した、今イケイケの作家さんのひとりだ。小野ハナは当時、ONIONSKINのメンバーとして、本作の制作に中核で携わった。

Vampilliaの圧倒的な音楽の壮絶さは言うまでもなく、どのカットからもびりびりと痺れるような、吐きそうなくらいに恐ろしく切実な情景がある。一匹の蝉がモノトーンの夏空を飛んでゆく。そうすると、向日葵畑を駆ける二つの虫取り網が見えてくる。しかし画面は上昇し、暗く淀む深淵の湖へ。少年は「そちら側」へと踏み入れるために、自分の掌にナイフを突き立て――。

炎上する教会、突き刺さる十字架、ランタン、その先にある“あの日”の向日葵畑、握っていたはずのてのひら……。どのモチーフも、あまりにも強力だ。観ているだけでドスドスとぶん殴られ続けてるみたいだ。

不気味で、なのにどこかさびしくて、愛嬌のあるキャラクターたちのデザインは特に素晴らしい。多くを語らないストーリーも見事だ。最後、ほんとうに最後、少年に表情を「つけていない」ところが超グッと来る……。画面を見つめる、たったひとつでも何かしらの救いを探し出そうと画面を見つめる鑑賞者のことを、実に実によく判っていると思うのだ。

ただこれ……ホントにこれって「小野ハナ」の作品であって、どのへんにONIONSKINのディレクションが入ってるのかがさっぱり解らなかったんですよね……。前回・前々回の作品と、内部で繋がっているものがまったく存在しないのだ。ONIONSKINというクリエイター集団が、何だかよく解らなくなった作品でもあった。その共通点とは一体どこにやら……(その答えは2日後に!)。

『都市計画』ONIONSKIN【81夜目】

昨日さんざん「ONIONSKINの作品には連続性がない」などと書き散らしてしまったが、これと昨日の『おわかれ』とは多少の連続性があるかもしれない。昨日はコマ撮り、こちらは2Dのアニメートだが、メンバーの菅谷愛のセンスがよく生かされた上品なミュージック・ビデオ。

面白いのが、けっこう歌詞とアニメーションを「わかりやすく」同期させていることだ。『おわかれ』で「おわかれだよー」と歌うところでキャラクターがばいばいと手を振ったり、こちらでは「飛行場」のシーンでそのまま滑走路が登場したり、交差点が現れたり……。ちょっとクセのある音楽を、あえて曲解することなく素直に反映させたグラフィック。そのギャップと、同期が、ハイセンスな映像時間を作り上げている。

色遣いがやはり素晴らしく、東京タワーが空をのぼるシーンは特に好きだ。ジェンガのように積み重なるビルディングもユニーク。鑑賞者の5分間にしっかりと応えようとしている作品。

『おわかれ』ONIONSKIN【80夜目】

ONIONSKINを語るのは難しい。自分は長らく、このアーティストの「芯」の部分が見えなかったのだ。

このブログをずっと読んで下さっているならば、ぼくが「自主制作アニメーション」にどうしても求めてしまう核の部分を読み解いて頂けているかもしれない。たったひとりの人間が、それを作らなければ死んでしまう、これをアウトプットするしかないんだ、とアニメーションにぶちまける命の炎のこと(その、熱のこと)。あるいは自分ではない誰かの、考えていること、思っていること、生きてきた軌跡・あかし・哲学・皮肉・肉体・精神……それに触れるということ。こんなふうにカッコつけて書いていても、なんだか伝わり切らないものがあるけれど、とにかく「その人らしさ」と呼ぶべきもの、さらに単刀直入に書けば「単なる視覚情報、聴覚情報には載ってこない、その裏側にあるもの」。そういうものをアニメーション求めているところがあったのだ。

ONIONSKINは、それとは異なる流れからアニメーションと向き合っている(と思っていた)。登場したときからにわかにその技術力、グッとくるセンスの良さで注目を集めたONIONSKIN。『おわかれ』は現在鑑賞できるONIONSKINの最初期の作品にあたる。まずは抑制された色味、緻密に設計された画面とアニメート。そして心地よさ。ユニークなキャラクター造形はどれも可愛らしい。ガツンと大声を出してこないところに、親しみを持てる鑑賞者は多いだろう。

一方で、これから数日かけてONIONSKINの作品を紹介してゆくが、実はこれが彼らの「作風」というわけではないのである。ゆるやかで、あたたかく、目をそっとなでるような色味やグラフィックは、つまりこの音楽から強くインスピレーションを受けたものだ。それを実に見事に、完成度も高くアウトプットしている。しかしこれが違う音楽になった途端、その作風が激変する。いや、作風どころか、メッセージも、表現の軸足すらも、音楽によってがらりと塗り替わってしまう。キム・イェオン、小野ハナといったスター性のある作家がディレクターに据えられると、ほとんど彼女たちの作風で画面が占められ、過去の作品からの連続性がそこでも途絶える。つまるところ「ONIONSKIN」の個性とは一体どこにあるのか? クライアント・ワークとしてはとても正しいことかもしれないけれど、作家からのメッセージ、ハートビートを一種の物差しにしている自分にとっては、これの読み取り方がわからず常に混乱してしまうのだ。*1

題材の度に、自分の頭を脳みそごとすべて取り替えることが出来るということ。チームを名乗る行為とは、まるで逆行するかのようなその姿勢、メッセージは、(当時)学生のプロジェクトとしては驚くべき先鋭的なコンセプトだ。そういう意味では「脱・頭でっかち」なのかもしれない。とにかくフィルム表現・グラフィック表現としてのアニメーションを突き詰める……これもまた、アニメーションという表現への見事な献身だろう。逆に言えば、彼らのフィルモグラフィを読み解く度に、その一種「冷めた」思想にゾッとするところがあるし、それもまた何だか今っぽい感じがするなぁ、と思うのだ。

*1:誤解のないように書いておくが、グラフィックのセンス自体には一定の連続性が存在している。けれどそれは「表に出てくる」ものであって、裏側のハートとはちょっと違うものだ。

『ハロウシンパシー』デコボーカル【79夜目】

 


ここ数日かけて紹介してきた一瀬と上甲は、実は同じ東京工芸大学の同期生で、現在はデコボーカルというユニットを組み活動している。これまで数々のショートアニメや、クライアントワークでその腕をふるっているけれど、そんなデコボーカルから一本ご紹介。

若手ロックバンド、シナリオアートのミュージックビデオ。二人が本作でどのような役割分担をしたのかは想像でしかないけれど……全体的には一瀬(さん)のカラーが色濃い感じ。そこに上甲(さん)がグラフィック面で密度を上げ、支えているイメージだろうか。一方で一瀬のソロ作品から比較すると、もう圧倒的にそのエネルギッシュなパワーがエンターテインメントとして見事に炸裂しまくっていてちょっと泣きそうになってしまう。わりかし抽象的なイメージの作品だとは思うんだけれど、何度か観ていくうちに不思議といろいろ解ってくるというか……。爆裂的な光が、太陽が、幾千の眠れない夜を走り抜けて、躍動して、粉々になって、また眩く輝きを放つ。歌詞とのシンクロも素晴らしい。本当はわかっている。全ての答えは握りしめている。誰かに照らされるわけでなくても、自分から光を発することはきっと出来るのだ。勇気と確信が炎に変わるようなダンス。単に技法やイラストレーションの技術だけでなく、一瀬のエネルギーと上甲の生命観、互いの作家としての持ち味がさらに高いところまで昇ったような秀作。

『Lizard Planet』上甲トモヨシ【78夜目】


 懐かしいなァ……。第15回学生CGコンテストのグランプリ作品だ。同じ年の同期は『中学星』の清水誠一郎、『ひとりだけの部屋』の野山映、『向ヶ丘千里はただ見つめていたのであった』の植草航、『輝きの川』の大桃洋祐などだ(ちなみに山田園子『family』、大川原亮『アニマルダンス』、川尻将由『ニッポニテスの夏』なども最終ノミネート)。正にゴールデンエイジ(のひとつ)!口をぱっくり開けながら、凄い作品の行列を見上げていた時代だ。なんかノスタルジー……。

ファーストカットで赤々と映される原始太陽。そして生命誕生、カンブリアまでをひたすら太陽から遠ざかる形で描きながら、『Lizard Planet』は幕をあける。ノイズを発する人工衛星に導かれて、主人公がたどり着くのは、高層ビルに原始自然を開発され尽くしたトカゲの一団だ。上甲は『雲の人 雨の人』と本作の間に、別に『BUILDINGS』という作品も発表しているけれど*1、これもまた生き物のようにニョキニョキと伸びたビルディングが登場する。けれど彼らは結局、先祖を生み出した太陽に引き込まれる形で自らを滅ぼすーー。

太陽に突っ込む瞬間、一番最後のリザードが柔和な笑みを浮かべているのがきつい。何を思って滅びるんだろう……。太陽に背を向けて、最後、トカゲがたどり着く場所には、一つの示唆こそあるけれど、やはり明確な「生きる」答えはない。魂の船着場は存在しない。生き物とはつまり、すべてがただ個々に漂い続ける惑星のひとつづつなのだろう。素晴らしい色彩や、動いているシンボルの物量がやはり見事な作品で、彼だけの宇宙観がここには確かに宿っている。隅々にまで行き届いている生き物の気配に、どこか心が落ち着く作品。

*1:作品に罪はないのですが、今見るにはちょっとつらい描写があるので、こちらは紹介を控えることにしました。ちなみにYouTubeで一番再生されているのはこの『BUILDINGS』だったりします!