ショートアニメーション千夜千本

短編アニメーション作品を紹介してゆきます。まだ見ぬ作品に触れる機会にして頂ければ幸いです。

『lilac (bombs Jun Togawa)』ONIONSKIN【84夜目】

結局のところ、ONIONSKINは、作品における「感情」の露出を拒み続けてきたアーティストだったのだと思う。ここ数日観てきたような作品で行われているのは、「表」に出てくる表現技法としての…つまり単にテクノロジーとしてのアニメーション表現の追求。そして音楽から引き出されるテーマ、情景への献身。参加アーティストにも求めるのは常にそれだ。そこに一切の、一個人のアーティストとしての私情は挟まなれない(むしろ排除する)。そこから生まれる一種の無菌的なものが、ONIONSKIN作品のハイセンスさや、クールさを感じさせていたのかなと思う。

けれど、この作品は違う。確かANIME SAKKA ZAKKAだったかな……。この作品に初めて出会ったとき、ようやく僕はONIONSKINのフロントマン・田村聡和の表現の「芯」を知ったのだ。

それは、「死」、そのものだった。

モノトーンの、レンズでも紙でも絵の具でもなく、電気信号である黄ケーブルを通して映し出される少女の曖昧な肉体と精神。かすかな水面を隔てて、彼女はアニメーションによって死体と生体に引き裂かれる。その静謐さ、描かれる一種の「愛おしさ」に、ぞくぞくぞくっとした。同時に、これまで自分には見えていなかった、田村の(ONIONSKINの)作品の大きな共通点に気がつかされたのだ。そうだ。これまで観た作品にも、この「死」へのまなざしが含まれてはいなかったか?

『おわかれ』でキャラクターたちがこちらへ手を振ったとき、その間に流れていたのは彼岸と此岸の境ではなかったか。『都市計画』の均一な心地よさは、生き物の気配がないことからではないか。『endless summer』で小野ハナから田村が引き出したのは、暗く深い闇から手を伸ばす死への渇望ではなかったか。『煙夜の夢』で絶望的なほどにやっかいな表現を駆使してでも表したかったものは、そのものずばり涅槃図のアニメーション化だったのではないか。

まったく無関係だと思われていた作品群に、ふとある物差しを当ててみると――途端にすべてが繋がってゆくことがある。一見ではわからないリンクに気づくこともまた、作家単位でアニメーション作品を追いかけているときの魅力のひとつだ。

ONIONSKINは現在に至るまで様々なクライアント・ワークを送り出し続けていて、田村のソロでのディレクション・ワークも数多い。あのゲスの極み乙女。のMVとかも作っていたりします。