ショートアニメーション千夜千本

短編アニメーション作品を紹介してゆきます。まだ見ぬ作品に触れる機会にして頂ければ幸いです。

『ウシニチ』一瀬皓コ【77夜目】


 おととい紹介した一瀬の衝撃作『かなしい朝ごはん』は、無理にジャンル分けすれば「ナンセンス」アニメとも呼べるものだと思う。一瀬の代表作『ウシニチ』は、その「ナンセンスさ」をさらに進めたような作品だ。

シンプルなドローイングのアニメーションで淡々と描かれるのは、理不尽で、奇妙で、時々ちょっとエグかったりするシーンの数々。ただし、「難解」と呼ぶにはすこし違うだろう。たぶん近いのは『不思議の国のアリス』だ。気になって仕方がない、視聴者の興味をたもつナンセンス・マンガの数々。ラストに訪れる説明不可なカタルシスは、映画的な感動でこそないけれど、心地よい不条理感をたっぷりと味わえる、一種の上品さ(気品さ)を感じさせるものだ。

昭和年代、多くのイラストレーター兼マンガ家が、さながら自身の創作の延長のように、シュールなアニメーションを紡ぎ続けていたという。『ウシニチ』はもしかすると、平成のナンセンスアニメと呼べるものなのかもしれない。

鬼にファンデーションつけてあげてるところがかわいい……。

『雲の人 雨の人』上甲トモヨシ【76夜目】


上甲作品の大きな魅力は、その卓越したグラフィックだ。このキャラクターが「何で」出来ていて、触ってみるとどうなるのか、持ち上げるとどうなるのか……その「触」感の違いが、惜しげも無くアニメートで表現される。ちょっとズルして大雑把になってしまいそうな部分も、何一つ例外なく緻密に描き込まれ、画面の情報量として積み上げられてゆく。そしてそれが、作品のストーリーにおける根幹の表現――両者の断絶とコミュニケーション――に「セリフよりもはるかに」雄弁かつ見事に機能しているのだ。

デジタル時代ならではの、隅々まで重ねられたレイヤーが生み出す奥行きのある背景美術も素晴らしい(これは、後の上甲の得意技となってゆく)。そして思わず「おお……!」と息が漏れそうになるラストの展開も巧みだ。雲のひと?雨のひと?という若干オリジナリティの強い設定が、ここで全て結ばれ、明かされる。思わずもう一度見たくなるようなクライマックスだろう。これもまた、一種の「皮肉」のセンスなのだと思う。

口だけで描かれる表情もとてもユニークだ。……と書こうと思ったら、ホームページの説明によればこれは「眼」らしい。知らなかった……。

『かなしい朝ごはん』一瀬皓コ【75夜目】


美大生が作るアニメーション」を少なからず観てきていると、ストーリー展開にある程度予想がついてきてしまうことがある。……イヤ、とはいえ、誰でもアニメーションを作ることが出来るし、似かよったものを作るかもと辞めてしまうくらいなら、それでも作った方がいいと自分は思う。絶対に悪いことじゃない。無駄なことなんて何もない。

けれど、せっかく何か作るなら、やっぱり観ている人を驚かせたいじゃないか?

この作品には、初見のとき「ええええぇぇぇぇーーーーっ!!?!?!」と度肝を抜かれた。椅子から転げ落ちそうになった記憶すらある。こここ、こんなのあり!? ちょっと冷静になると、このセット(背景)でこのどんでん返しはミスリードとしてはズルいといえばズルいのだが……*1。タラタラ長くしてしまいそうなところを、絶妙なテンポ感とアニメートで走り抜けるところも素晴らしい。アイデアに決して甘えていないと思う。

グラフィックだけでなく、鋭く尖った強烈な作家性。「作品」とはつまり、鑑賞者にぶつける一つの挑戦状なのかもしれない。一瀬のこの後の作品から比較すると、やはりこれは「最初のころの作品」だという印象もなくはないので、それはつまり逆にいえば、「誰でもガンバレバ鑑賞者に一撃を加えられるのだ」という証明にもなっているのではないか? どうせ作るなら同じ一本……驚かせたり、泣かせたり、笑わせたり、してみたいよね。

淡々と積み上げられる絶望が、可愛らしい絵柄とも相まって、鑑賞者の網膜を焼き切るような作品。ところで、何でこの題材で作ろうと思ったんだろう……。

*1:だって、こんな背景だったら、「そうなっている」だなんて思いもしないじゃないか!

『ENGAWA DE DANCEHALL』坂本渉太【74夜目】

映像の世界は、(大小問わず)あらゆる技術革新と切っても切り離せない関係にある。一枚一枚手で描かなければ動かせなかった2Dアニメーションにも、様々な新しいツール、そしてテクノロジーが発明され、その参入の敷居を下げ続けてきた。

「パペットツール」は、Adobe社が開発したソフトウェア「After Effect」に搭載された新機能のひとつだった。1枚のキャラクターの静止画に人形劇(「パペット」)のように架空の「指」をしこみ、その指を操作するだけで動きをつけることが出来るというもの。これでアニメーターは、キャラクターの絵を1枚描くだけで、簡単にアニメーションを作ることが可能となったのだ。

……マァ勿論、これがそんなにおいしいツールなわけがなかった。実際にこの機能を使うと、なんだかキャラクターの間接がグニャグニャに見えてしまったのだ。そう……グニャグニャに。本来はソフトの機能がバリバリ透けてみえるアニメーションって好まれないものなのだが、それを全力で無視してやりきった結果、誰も観たことがない作品になってしまったのが、これだ。

ヒョロッと長い腕と足、何ともほがらかで気の抜けるイラストレーション。デジタルアニメならではの横にスウッと動く画面作りも相まって、じっと見ているのに全てが横滑りしていくような独特の質感がある。このアニメがもう一つ優れているのが、原曲の4つ打ちのリズムにキャラクターの動きがめちゃくちゃ忠実なことだ。「何だこれは!?」と鑑賞者が呆気にとられているうちに、自分の右足もまたリズムを刻み始め、なぜか気分がアガっていく。頭も動き始めたらもうおしまいだ。作品はどんどん舞台を変え続け、最後には前代未聞の祝祭へわたしたちを連れ込んでゆく。ラストに訪れる謎のカタルシスの爆発っぷりたるや!! なんかわからないけど嬉しい!!楽しい!!涙が止まらない……!!!

ハレの日とケの日を積み重ねながら、どんなにしんどい農作業だって、わたしたち日本人は歌いながら乗り切ってきた。こんなに気の抜けたグラフィックが、ここまでピースフルなジャポニズムDNAを呼び覚ますのだ。きつねさんもおいで!タヌキさんだっておいで!今日はお祭りだよ!!パペットツールならではのグニャグニャとした動きこそが、ここまでの脱力感を生み出していると思うのだ。

こういう4つ打ちダンスミュージックって、今がいちばん流行しているので、もしかすると登場するのが早すぎたMVなのかもしれない。今だったらスタンプとかがバカ売れしてそう……(めちゃくちゃキャッチーですよね)。作者の坂本渉太はジャンルを横断するアーティストとして活動していて、本作は彼のほぼ最初期にあたるアニメーション作品だ。

『ロボと少女(仮)』アオキタクト【73夜目】

やっぱりこういう、クレイジーな作家なのだ。アオキタクトは。

処女作『ハルヲ』を発表後、その勢いのままに商業資本での長編作品『アジール・セッション』を上梓したアオキタクト。そこからほとんど間を空けず制作された本作では、いきなりそのアプローチを激変させた。

当時「来てるぞ、来てるぞ」と言われ始めていたニコニコ動画という媒体に、ぴったり合わせるように制作された短時間・ツッコミどころ満載のギャグ・美少女×キュートなロボット・シリーズもの……という、売れ線要素押さえまくりのめちゃめちゃポップな作品。それでも隠しきれていないのがこの「暑苦しい」ほどの熱量で、100秒間にパンパンに詰め込まれたハチャメチャな展開、どんどんタガが外れていくスケール、そこまでやるか“と言わざるを得ない”話の盛り上がりっぷり。もうちょっとフツーのギャグ回を入れれば長く続けられたのでは、というこちらのダサい思いこみを粉砕するがごとく、正に衝撃のカタルシスが用意されていて、最後には(なぜか)手に汗握る王道のアツい展開にまで物語が一気に駆け上がってゆく。これがやりたい、絶対にかっこいい、どうだ見ていろ! とグッと拳を固める作家の表情すらも観てとれるようだった。リアルタイムでの連載時、誰もが前のめりになってこの最終回に夢中にさせられたものだ。『ハルヲ』の時の情熱は再びここに炸裂していた。その様が、本当にかっこ良かった。

抜群に面白い作品だし、気軽に楽しく見ることが出来るので(カップめんを待つ間に2話分も観れちゃうぞ)、広く人に勧められる作品。アオキは本作のDVDを即売会などに持ち込み、当時としては記録的な枚数の販売を達成した。彼はその足跡を各所に残しつつも、現在は映像制作会社で一ディレクターとして活動している。なので本作が、現時点では最後の彼のオリジナル作品だ。実はアオキタクトって『ハルヲ』と『ロボと少女(仮)』しかインディーズでは発表していない、かなり寡作なほうにあたるクリエイターなのだが、もうお分かりの通り、その1本1本で怖ろしいほどの爪痕を残している作家なのである。もしも今だったら、何がしたいと考えるのかな。

『総天然色少年冒険活劇漫画映画 ハルヲ』アオキタクト【72夜目】

総天然色少年冒険活劇漫画映画 ハルヲ [レンタル落ち]

たまにこういう、クレイジーな作家が現れてしまうのである。

前職はロックバンドのヴォーカル。いきなり前知識も何もなく3DCGソフトを買って、とりあえずひとりで全部作ってみた処女作が30分28秒のガチ長編*1アニメーション。どうしてそうなるんだ!? 貧困街に住み、ヤクザと渡り歩く少年・ハルヲのヴァイオレンスでイノセントな物語は、多彩な登場人物、交錯する想い、そして(何といっても)全編からあふれる熱量の凄まじさで圧倒されてしまう。音楽も全部自作自演、エンディングでは自分で歌っちゃってまでいるのだ。何ということだ!

既存作品からのイメージはちょっぴり感じなくもないものの、迷いのないセリフの書き方、惜しげもなくモデリングされた(ちょっとでも作品制作に慣れていたら、ここまでセットも登場人物も作ろうとはしないだろう……大変すぎて)モデルの数々、「ここを見せるぞ」という鼻息荒いロマンティックな演出の連発、そして「這い上がってやる!」という叫びが聞こえてくるような“伝えたいこと”の芯の強さ。そのすべてからビリビリと伝わる、ハルヲのあの赤い瞳で、まっすぐ見つめられるような真剣さ……。その魅力たるや、「これこそが自主制作アニメーションなんだ!!」と道行く人の肩を片っ端から掴んで語りたくなるほどだ。これをやるしかないんだ、これをやらなきゃ俺はきっと死ぬんだ、とでも言わんばかりの作者の「完成」への献身。実際の「プロっぽい」クオリティにまでそれが追い付いていなくても、これほどまでに情熱的ならば、マニアじゃなくたって届くんだ。燃え移るんだ。誰に見せたって、これは伝わるはずなんだ。

悪ガキはいつだって、自分を舐め下す野郎に噛みついて、ぼこぼこに殴ってやりたいと思っている。誰のためにでもなく、実はそいつを恨んでいるわけでもなく、心底、自分のために。自分にやさしくするために。その表現が、ぶちまける相手が、たまたまアニメーションだったりするだけのことなのだ。

素晴らしいことに、こういう「1作目からクレイジーな作家」というのは、実はアオキタクトだけでなく他にも結構いたりするのである(いきなり30分越え、みたいな作家意外と多いんです他にも……)。はちゃめちゃな世界でしょ? 大好きだよ、アニメーション。

このブログの名前は「『ショート』アニメーション千夜千本」だが、こういう長い作品もバンバン取り上げていく所存です。アオキタクトは本作のドロップ後、さらにスタッフを増員し(今度こそ本当の)長編作品『アジール・セッション』に取り組む。

*1:ほんとは中篇かな、30分だったら。

『文學少女』大橋史【71夜目】

 


大橋のごく最近の作品も挙げておこう。リリックビデオの隆盛もあり、ここ数年は「文字」アニメートの仕事が目立つ大橋の、その代表作とも言える一本だ。

声とエレキ・ギターだけの静かなイントロに、ふわりと言葉が浮かび上がる冒頭。そして物語は急加速し、ある少女の心象風景が駆けだしてゆく。ぐりぐりとドリルを回すように、心の中にねじ込まれてくる文字たち。よく立ったヴォーカルの「言葉」を焼き込むかのごとく、タイポがスクリーンの上を叩きまくり、少女の景色がそれを抒情的に定着させてゆく。まるでスミをローラーで塗り付けて転がすがごとく、言葉とグラフィックを心に残そうとするパワフルさが、小手先のテクニックを越えて(もちろん、それが作品を支えているんだけれど!)うたのテーマを激しく、そして情熱的に、見る者の心に届けようとしてくるのだ。

実は本作は、世界で100人くらいしか興奮できない超ニッチな豪華メンバー(笑)を作画に招聘している。少女の1番の作画は中内友紀恵、2番はkoya(アーティスト集団「賢者」)、ラストは何と植草航だ。作監が立っていないので絵柄自体はバラバラになっているんだけれど、特にkoyaのパートがいい。<言葉を剣に 沈黙を盾に 君は 君だけの主人公になる>という歌詞が、大迫力で目の前に立ち上がる。

ここまで本ブログで、大橋の昔の作品からずっと観て来て下さっている読者ならば、彼のこれまでの得意技が各所に配置されていることにも気づくだろう。素晴らしく遠くまで歩いてきた彼の、その一本の線が、ちゃんと最新の作品にまで反映されている姿は素晴らしい。ちょっと感動的かもしれない……。音楽とアニメーションのラグランジュポイントを探し続ける大橋の、タイポグラフィにおける最上位魔法だ。

あとこれは単純に……曲が超大好きだ! そのアドバンテージも確かに否定できない……。そうさ、人生はストーリー。そして自意識過剰な私小説

大橋はMVやコンサート映像、VJなどで現在もその手腕を発揮し続けている。2015年にはゆずのバック映像を手掛け、NHK紅白歌合戦の映像にも参加した。様々なアーティストとのコラボレーション・ワークにも積極的だ。昨年には久々の「オリジナル」といえる映像作品、『nakaniwa』をドロップしている。

『kotonoha breakdown』大橋史【70夜目】

アニメーション作家・大橋史ウィークをお届けしております。今日は、彼のクライアント・ワークから一本抜粋する。これ、久々に観返したら、もしかすると当時以上に殴られたような感覚になった。すっごいわこの作品……。

大橋がこの頃トライし始めた、「キャラクター」を取り入れたアニメーションを作品の中心に据えつつも、彼の得意技である「文字をばらばらのパーツに分割して違う風景を描く」試みがものすごく効いていて、とても心地よい映像になっている。カラフルだし、可愛らしい。とてもハイセンスだ。セロファンのように重なる色はどのカットも美しく、キャッチーな場面の選択も相まって、とても見やすく、初見の方にもよく届く配慮がなされている。またそこをしっかり押さえつつも、見せ場になるようなシーンはばっちり何か所も用意できる手腕は、さすがといった所だろう。サムネにもなっている夜の街のカットは特に素晴らしい。ああ、きれいだ……。

けれど、今回胸打たれたのは、そこだけじゃない。

アニメーションで作られた歌付きのMVって、90%以上のものが、音楽そのものが描いているテーマに「あと一歩」踏み込まない所があると思う。多くの優れた作品の場合、その曲のメッセージをしっかりと咀嚼しつつも、すこしズラして違う物語を描いたり、またより抽象度が高いモチーフを選択したりする場合がほとんどだ。それは、音楽そのものに対するリスペクトの表し方でもあると思うし、あくまで音楽が「主役」であるべき、として制作される、MVのひとつの遠慮のようでもあるのかもしれない。

そんな中で、この作品は、ものすごく『kotonoha breakdown』という楽曲のテーマに直接的に「踏み込んで」いる。その決意も並々ならぬものがあるし、ともすれば押しつけになってしまう試みだけれど……本作はむしろ、だからこそまっすぐ、なおかつ強烈に! この曲のメッセージが胸に飛び込み、火花を散らしながらスパークするのだ。誰もが「伝わる」ことを願っていながら、何一つ心から信じることなんてできない。いつの間にかブレイクダウンした言葉のカケラたちが、日常のカラーレイヤーを何層も切断し、やがてそれすらも破壊して、ばらばらに引き裂いてゆく。迷子になって、抜け出せなくて、それでも電磁波の嵐の向こうに、手を伸ばす――。震災後の「いま」のコミュニケーションを明確に、なおかつ的確に突いた、ものすごく……切ない作品になっていると思うのだ。

作品制作に対する情熱は隠さないけれど、作品自体の温度はきちんと「適温」に保とうとしていた大橋パイセンが、何かしら自身の中にあったその制約をやぶり、超「エモい」内容にしているということ……。そこにも何だかグッと来てしまった。ひとりの作家を追いかけているときの、その特権だともいえる独特のカタルシスだと思う。やっぱり大橋パイセンってエモいんだよ。胸を貫くような切なさが、残像になって心に残る傑作。……こういう問題意識を、ちゃんと持っている人がどれだけいるのかはわからないけれど、それでも。

『こうこう | koukou』大橋史【69夜目】

大橋史(パイセン)のオリジナルでは、いちばん好きな作品。『Your Thorn』で“サウンド”に、『CHANNELER』で“言葉”に挑んだドクター大橋研究室が次に目標としたのは、人間が口から発する“音節”、そして“声”の可視化だった。

大橋の作品は当時の「流行」みたいなものを巧みに掴むところがあって、製作当時は、ちょうどノーマン・マクラレンの生誕100年にあたり(厳密には一年前だったかな)、彼の再ブレイクといえる雰囲気が高まっていた*1。その感じも少なからず意識しつつ、大橋のこれまでの研究成果が存分に生かされた内容になっている。一瞬無意味に感じられる「ぱら ぴりぷる ぺら ぽろろん」が、光の軌道を描き、かたちを生み出し、やわらかく泳いで消えてゆく。白の残像にやや青い光が残る、独特のグラフィック処理も素晴らしい。非常に丁寧に作られていながら、音楽そのものの躍動感や興奮を決して失わずに、情熱的にすら感じられるアニメートが繰り広げられる。何て素晴らしい! 若干抽象的すぎるかな? と鑑賞者が思い始めたあたりから、少し具体的なデザインを出したりして、観る人を楽しませ続けようとする工夫も決して忘れていない。このバランス感覚が大好きだ……。

もういちいち書いてないけれど、ちゃんとフルスクリーンで見ようね!

も・ぞ・も・ぞ・こ、うっぞーんぞ!

*1:この作品と同時期に制作された『Poker』(水江未来×中内友紀恵)も、マクラレン・オマージュが加えられている

『CHANNELER』大橋史【68夜目】

大橋がスゴいのが、これほどクライアント・ワークを手広く手掛けつつも、自身の「オリジナル・ワークです」と言える内容の作品も定期的に欠かさず送り出していることだ。そして毎度、その度に新しい挑戦を作品内に盛り込んでいる。そこがホントーに“ドクター”足り得るところだろう。例えば『Your Thorn』で、自身のアニメーションに一種の到達点を見せたと思ったら、それから僅か1年で、これほど違うアプローチの作品を発表したりするように。

前作が「有機的」「音楽がもつ“波動”のようなもの」の視覚化に全力を注がれたのだとしたら、本作は「記号的」で、「音楽ではなく“リリック”」の視覚化にチャレンジされている。ちょうど□□□が『CD』というアルバムをリリースして、「タイポグラフィ」の面白さに注目が集まっていたときだった。タイトルの『CHANNELER』は、チャネリングと「2ちゃんねらー」をひっかけたもの。動画サイトでも十分楽しめるけれど、前作『Your Thorn』で身に着けていた「ビッグスクリーンで解き放たれる」感覚がしっかり本作にも持ち込まれていて、巨大スクリーンで鑑賞すると特に映える。というか、迫力が伝わる。アスキーアートで描かれるキャラクターたちは不気味なほどにあいまいな形状で、確かな形は何も定着しないまま、たった1本の記号がさながら生きもののようにスクリーンの上を這いまわる。あれ、あれ、掴まってもいい手すりはどこなの? 時間を支配し、スクリーンを蹂躙する、その一種の「煽り方」が、鑑賞者をたっぷりとゾクゾクさせてくれるのだ。

ただ、これ、リリックが、それほどは面白くないんですよね……。