ショートアニメーション千夜千本

短編アニメーション作品を紹介してゆきます。まだ見ぬ作品に触れる機会にして頂ければ幸いです。

『朱の路』村田朋泰【125夜目】

数年前の藝大院の上映に行ったとき、村田朋泰トークゲストで呼ばれていて、久々にこの『朱の路』を鑑賞した。観終えた後、ああ、やっぱりすごい、と思って、魂ごとスクリーンへ持ってゆかれた記憶がある。やっぱり、本当に、圧倒的だった。ただし一方で、いわゆる「見やすい」作品では決してなくて……。村田のフィルモグラフィーはその多くでセリフがなく、基本的にはシーケンスの積み重ねで、明快に物語(この場合は「ストーリー」)が展開することも、また理解の助けとなるような解説が差し込まれることもほとんどない。『朱の路』も、時期を空けながら4回くらい鑑賞している作品だけど、正直、いまだにほとんどの部分が“わからない”。なのに、頭の中で、ちゃんと爆発する。

難解な作品ではあると思う。

杉井ギザブローの『銀河鉄道の夜』を彷彿とさせるような夜汽車、男がひとり窓の外を眺めている。そこへひとりの少女が駆け寄り、男に花を差し出す。すると急に場面が変わって、こんどは土砂降りの沖縄へ。激しく雨が打ち付けるのに、なぜか周囲は晴れていて、そこへ牛車が留まる。男が乗り込むと、その牛車にアップライトピアノが積まれていることに気がついて――。

ヒントが少ないぶん、我々はスクリーンをより凝視しようとする。何か知り得るものはないか、探すように画面を見つめる。すると、男のあの大きな瞳や、手と、自然と心が向き合う。なぜかわからないけれど、その不器用な指がピアノの鍵盤をたたくとき、男が泣きそうな瞳で空を見上げるとき、わたしたちは何かが「判った」ような気がする。細かなストーリーは見えないけれど、わたしたちはそれ以上のギフトを、確かに受け取り満たされる。

後半で「どんでん返し」があって、鑑賞者は一気に物語の全貌が見えたつもりになる。けれど男のその後のアクションに、男が抱えた傷を埋めるような「明確ななにか」が訪れるわけではない。なのにこの作品には、確かにカタルシスがあり、わたしたちは村田から小さな「花」を受け取ることができるのだ。仕組みとしてはちょっと不思議だけれど、見事な作劇だと思う。

「わかったようで、わからない」作品は、この世界にいっぱいある。村田の作品は逆で、「わからないけれど、わかる」のだ。村田がアニメーション界隈を飛び越えて、老若男女さまざまな層から支持され続けているのも、ここにこそ秘密があるに違いない。