ショートアニメーション千夜千本

短編アニメーション作品を紹介してゆきます。まだ見ぬ作品に触れる機会にして頂ければ幸いです。

『Scripta volant』折笠良【98夜目】

(昨日から微妙に続きます)一年がかりでアニメーションを製作して、そして挑んだ僕らの卒業制作展は――会期初日の14時46分で途中中断し、二度と再開されることはなかった。東日本大震災。余震が続く中で撤収作業をした。在庫の山になったカタログやDVDは処分するしかなかった。脈々と続く「卒業制作展」を台無しにし、先輩たちから受け取ったバトンを次に渡せなかった無念。そして発表の機会を失った作品たち……。紛れもなく、過去にも未来にもない学部史上最大の失敗だっただろう。あまりにも大きな喪失を抱えながら、わたしたちは卒業式をむかえることすらなく*1、世の中に出ていかなければならなかった。

5月、同じく中止に追い込まれていた東京藝術大学大学院アニメーション専攻の卒業制作展が、再度同じ会場で開催されることを知った。突き動かされるように観に行った。けれど……。僕がそのとき、「史上最悪の卒業制作展だ」と言っていたのは、まさにこの回のことだ。出展されていたアニメーションの内容がどれもとにかく重たかった。そしてしんどい作品ばかりだった。半数以上で自殺が描かれ、また半数では子どもたちが理不尽に傷つけられ、全体的に未来への不安や迷いや苦しみが、どっしりと漂っていた。会場から出てきたお客さんたちの、特にご年配の方や小さな子ども、お母さんのひとたちの……あの表情が忘れられない。大津波があって、原発事故があって、街は薄暗くて、余震は続いていて、なにか明るいものを、なにか忘れさせてくれるものを、なにか未来を指し示してくれるものを……と、「すごい!藝大生たちのアニメーションだって!」と期待して入ってきた、これらの文脈になじみの薄い一般のお客さんたちが、暗い表情で肩を落としながら馬車道を後にしていく姿が本当に悔しくて、そんな立場でもないくせに、自分にめちゃくちゃな怒りが湧き上がってきた。

今思えば……インディペンデントのアニメーションとしては、それほど偏った卒展の内容でもなかったと思う(植草さんの年でもあったし)。けれどなぜか、東日本大震災からわずか2ヶ月しか経っていない、まだ照明が暗い地下道をくぐり抜けて、何か明るいものを、何かアニメーションで明るいものを……と訪れていた人々に囲まれながらこれらの作品を見たときに、普段ならキャラクターが投身自殺しようが子どもたちが殴られ襲われようが言うほど気にならないのはずなのに……そういう要素だけが急に、不気味に生々しく自分の中で立ち上がってきてしまったのだ。もう、そういう時期だったのだろう。仕方がないといえばそうだ。そもそも卒制展に対してだって、結局どうしようもない嫉妬でしかなかった……。ぼくたちは卒業制作展が出来なかったのに、どうしてあなたたちだけは。震災後のみんなふさぎ込んでいたときに、ぼくたちならきっとお客さんに希望を届けることができたはずなのに、どうして……。

そのときに、Twitterで話しかけてきて下さったのが、この卒展で本作を出品されていた折笠(さん)だった。

折笠良は、他の人がどう言うかは判らないけれど、少なくとも自分にとっては――本当の意味で「完全に純粋で新しい」アニメーション作家だ。そして彼のフォロワーが将来現れない限りは、紛れもなく日本で唯一無二の存在だ。理由は簡単だ。彼のアニメーション制作のメソッドは、私たちのどのスタートからも異なっているからである。

「“アニメーション”とは、すなわち何か」。彼はアニメーション制作そのものを、テクノロジーとしてのアニメの元の元にある「コマ撮り」にまで遡って考える。1コマ1コマを、何かに「刻み付ける」ものだとする。そして出来上がったものを再生し、音楽やナレーションを加えた時に、はじめて立ち上がってくるものを“アニメーション作品”と呼ぶのだ。ご本人の考えとは違うかもだけれど、とにかく僕は折笠の作り方をそう理解している。そしてその上で、この作品を鑑賞して欲しい。

ユニークなアイデアは沢山ある。文字が鳥のように跳ねて、「幸福な王子さま」の像を形作り、涙のように零れ落ちて、そして鉛筆の痕跡が残り続けていく。読書体験をアニメーション化するとこうなるのかな、という理解は確かに合っている(と思う)。けれど後半、そして実は最初の1秒から――折笠がこの作品で達成しようとしていることは、そんな表層の表現からはるかに遠い場所にあることが判るだろう。

「幸福な王子」のテキストを、一文字一文字愚直に紙の上に描き出し、その文字すらも紙の上を滑り始めたとき、そこに*2浮かび上がるのはーーこのテキストを「読み解こう」とする、「さらに深く近づこう」とする、制作者の強い強い強い強い意識だ。文字を描き出すことで、アニメーションとして表すことで、作者はオスカー・ワイルドの「幸福な王子」により近づこうとする。アニメーションをつくる、という試みそのものが、あたかも宗教的な、あるいは何かシャーマン的な行為であるかのように。折笠の作品は、ヴィジュアルとして、ストーリーとして観る人を飽きさせないことも勿論素晴らしいけれど、この作品が、映像を通して「本当に」見ようとしているもの。より踏み込めば、一体「誰の」目線から映像を描こうと試みているかということ。この「アニメーションを通じて」行われようとしている、試みられようとしている、他の作品よりもさらにさらに大きな愛と敬愛と畏怖のまぐわい。もしあなたがこの作品を1度目でも、たとえ2度目でも鑑賞している途中で、そのことにふと気がつけたならばーー、アニメーションというテクノロジーが、普段見知るものよりもさらにさらに大きな可能性を秘めたものとして、そしてここで実際に成立していることに、頭が吹き飛んじゃうくらいの(まだ名前のついていない)感動を覚えるのではないだろうか。

その時の社会情勢によって、作品が明るく見えたり、暗く感じてしまったり……。けれど本当に時々、まったくそういうものから支配されずにただただ純粋にまっすぐと立ち上がる、まるであらかじめ大昔から作られていたような、途方もない存在の作品と出会えることがある。折笠(さん)は当時、僕の先ほどの卒展への捉え方を批判的にご指摘して下さった。今ならわかる。自分のあの時の見え方そのものに嘘偽りはなかったとしても……もっともっと、言葉も社会も時間すらも越えて、ただただ愛おしく対象を捉えるための、しなやかで強い「目」を持たなくてはいけないのだ。そして実際、折笠の作品には、そういう強さがあったのだ。

……とはいえ、初見の段階から、折笠のその文脈にまで自分が辿り着けていたわけではない。これ一本だけなら、「ユニークでグッと来る印象的な作品だなぁ……」くらいで終わっちゃうかもしれない。彼の作品を発表順で追ってゆくことで、その思考がさらに理解されやすくなるだろう。

*1:卒業式も「安全上の理由」で中止になった。当時、多くの大学で同じことがあったと記憶している。

*2:実は「スクリーンの上」、ですらなく!