ショートアニメーション千夜千本

短編アニメーション作品を紹介してゆきます。まだ見ぬ作品に触れる機会にして頂ければ幸いです。

『夜ごはんの時刻』村本咲【60夜目】

なぜ、アニメーションでなければならないのか。

小説だったり、絵画だったり、漫画だったり、写真だったり、演劇だったり、音楽だったり、実写だったり*1、沢山の表現媒体がある中で、どうしてそれは、アニメーションでなければならないのか。作り手が時々立ち止まると、そもそも悩んでしまったりすることがある。答えはあるかもしれないし、もしかするとないのかもしれない。

作中で淡々と描かれてゆく、「夜ごはんの時刻」までの風景。セリフもなく、音楽もなく、登場人物たちが家路に向かう姿が(最後のシーンでさえそうだ)次々に映し出されてゆく。そのどの光景もが、なぜか観るものの記憶の扉を優しくノックする。決してグラフィックが描き込まれているわけではないのに、何か強烈な別の景色が頭の中に立ち上がってゆく。そうだ。そうだ。確かに、「夜ごはんの時刻」というのは存在していたはずなのだ。砂場で行列をつくって手を洗って、バス待ち、流れる影に当たったらダメージを受けて、遠く眺めるビルの灯りがひとつひとつ落ちていって、すぐ隣に避ければいいのにわざわざ手すりを乗り越えるような動きを自分に課したりして。あの「時刻」に向けて、物語は確かに進んでゆく。ほとんど最小限といってよい、けれど極めて効果的で、鮮烈な「ストーリー」。ケレン味のないそれが、あらゆる表現技法を超えて、多くの鑑賞者に直接届いてくるはずだ。

もしもグラフィックがより具体的だったら、ここまで自分自身のパーソナルな記憶が流れ込むことはなかったのではないか。もしも絵が動いていなかったら、これほど肉体的に感覚が蘇ることはなかったのではないか。あまたある「アニメーション」という表現技法の力の、そのひとつを、ここまで鮮烈に感じさせてくれる作品は、あまりないのではないだろうか。

思えば歳をとるにつれて、この(自分の中の)「夜ごはんの時刻」がどれだけあいまいになってゆくことだろう。家に帰るまでの、あの愛おしくて、優しい時間。ここを切り取ろうと着想したこと自体も素晴らしいし、ちゃんとそのコンセプトが、最大限の効果を生み出していることも抜群に優れていると思う。

*1:実写かアニメーションか、は近年ますます曖昧になるつつあるけれど。