ショートアニメーション千夜千本

短編アニメーション作品を紹介してゆきます。まだ見ぬ作品に触れる機会にして頂ければ幸いです。

『Notre chambre われわれの部屋』折笠良【102夜目】

折笠のその制作スタイルは、逆に言えば、コンペに全ての主眼を置いたものでもないし、映画館での興行を目指されたものでもない。エンターテインメントとして仕上がってはいるけれど、最初からそこを狙っているわけでもない(と僕は認識している)。つまり、彼が制作を終えた段階で、(チャンスが無ければ)世に放たれることなく作品が眠ってしまう可能性もあるということだ。

本作は『水準原点』とほぼ同時期に制作されていながら、発表の機会は『水準原点』よりも圧倒的に少なかった。自分については、本当についこの間の、新千歳空港国際アニメーション映画祭でようやく鑑賞できた作品。その後すぐにあった作家のトーク・セッションによれば、『水準原点』と本作はまるで一対のような内容にも思えるという。前者は作家の困難・苦しみを描き、そして本作には、一種の幸福感が宿っている。

フランスの哲学者、ロラン・バルトの著作を少しづつ原書で読んでいった体験を1本のフィルムに繋いだもので、多少大変なこともあったのかもだけれど、全体的には楽しそうな雰囲気が伝わってくる。その分、他の作品よりはカメラがやや内向きにも感じられる。これまでよりもさらに、よりアニメーション作家ーテクストの著作者、という関係性を鑑賞者が俯瞰しているようなイメージ。まるでダンスするみたいに、戯れるようにそれと向かい合う姿は、アニメーション作品に秘められた更なる可能性と、そして……なにかひとつ、大きな勇気をもらえているような気さえするのだ。

アニメーションは、圧倒的に自由で、そして“物語”にこれほどにも強い表現媒体である。色々な作品が、生まれてほしいし、生みださなければいけないな、と思う。折笠の作品は、永久に私たちの勇気であり続ける。

『ことの次第』折笠良【101夜目】

 
「で、折笠良がすごいのは判ったけど、これってどうお金にコミットするの?」という疑問をもつ方は、少なからずいらっしゃるかもしれない。彼のストイックで孤高なスタイルは、商業の世界と一瞬縁遠いようにも思われる。そんな疑問を、折笠は今年、見事に粉砕した。今夜紹介するのは、ミュージシャン・環ROYのミュージック・ビデオ。

折笠のこれまでの「研究テーマ」を見事にシンクロさせながら、誰も見たことがないような衝撃の映像に仕上がっている。こういう、歌詞をどんどん活字にして見せていくミュージック・ビデオを「リリック・ビデオ」と言うのだが、折笠に作らせれば、まずスタート地点の着想からここまで異なるものになる。そして同時に、具体的に日本語が浮かび上がる瞬間はそれほどないにもかかわらず、ミュージシャンのラップと言葉は、このアニメーションによってこそ、ぐっと前に出て聞こえてくる。

折笠も勿論すごいんだけれど、この曲とこの歌詞が出来上がった時点で「これは折笠良だ!」って最初に言いだした人もホントに同じくらいすごいと思う。クリエイター・作家同士の、パーフェクトすぎるシンクロだ。言葉も、意味も、音節も、活字も切り離されて、まだ名前のつく前の「何か」にまで解体されて、わたしたちの前を漂って。

<言葉は記号の次の記号/比喩が結びついて意味になるもの/不完全で関係性がいつでも必要  世界そのもの><鳴き声は整理され声に変わる/声は言葉となって意味を纏う/意味は時と場を僕らに与え/時と場は物語を紡いでる>

『水準原点』折笠良【100夜目】

「この作家を追い続けていれば、いつか、このような作品が観られるのではないか」。そんな奇跡のような予感は、けれど多くの場合、その作品が出来上がったときに“初めて”気が付かされる。本作は、折笠が大学院修了後、仕事をしながらコツコツと彫り続けていたものだという。『水準原点』は日本のアニメーション賞の権威である大藤信郎賞を獲得し、海外でもアヌシー、オタワ、ザグレブ全てで*1ノミネート。日本人として史上初めてゴールデン・ザグレブを、オタワでは最優秀実験・抽象作品賞に輝いた。

画面いっぱいに押し寄せてくる白い土。ただただひたすら大波が起こって、さざ波が残り小さくふるえる。カメラはそれを延々と映し出す。その繰り返しが続くだけなのに、なぜか不思議と引き込まれ、目が離せないその光景。変わらずに起こり続ける波……。と、ある瞬間、カメラが切り替わる。今度はこの光景を上から映し出す。そこに浮かび上がっていたのは――石原吉郎の詩、「水準原点」。それも、一文字づつ、だ。これまで起きていた波は、実は詩の一文字一文字が白い粘土に刻まれ、そして消える――この運動から発生していたものだったことを、鑑賞者は初めて知る。

『Scripta volant』で英語を、あさって紹介する作品でフランス語に挑んだ折笠は、あるとき「日本語が気になりだし」て、『現代詩手帖』を過去五十年分遡り、読み込んだという*2。そこで探し出したのが、長く厳しいシベリア抑留の経験をもつ戦後詩の巨匠・石原吉郎だった。この白いさざ波は、その経緯を踏まえてみれば、寒く厳しいソ連の景色をイメージさせる。

この作品は、どうしても「100夜目」に紹介したかった。『水準原点』は、これまでのどのアニメーションにも似ていない。具体的なストーリーは影も形もない。そこにあるのは、日々の生活の中で、ある詩人の「ことば」に挑み、向き合い、そして懸命に「想像」をするために、彫り込まれ続けたその記録だ。二度と書き戻せない不可逆の創作の中で、6分40秒間に刻み付けたアニメーションの「彫刻」だ。その姿はあまりにも力強くて、気高く、そして、美しい。また石原のエピソードを踏まえれば、この作品の静謐な誇り高さの正体は、厳しい環境の中で祖国を想い、言葉を刻み続けた詩人の姿そのものだったということが、はっきりと解るだろう。

そして同時に、これまで「1コマごとに」刻むように、自分ではない何者かのこえを聞き、アニメーションにし続けてきた折笠の、その創作のエッセンスを最もシンプルに、そしてドラマチックに表現した到達点の作品であることも、きっとご理解頂けると思う。

どんなドラマでも、本でも、経験でも、音楽でも、決してなし得ないことが、アニメーションをもってすれば描き出すことができる。この作品は、アニメーションが持つ極めて大きな多様性と、可能性と、そして込めることができる「物語」の自由さを証明している。揺るぎない、アニメーションというテクノロジーを、ひとつの気高さにまで昇華させた永久不滅の傑作。

もし鑑賞できる機会があれば、ぜひご覧になって下さい。

 〈みなもとにあって 水は/まさにそのかたちに集約する/そのかたちにあって/まさに物質をただすために/水であるすべてを/その位置へ集約するまぎれもない/高さで そこが/あるならば/みなもとはふたたび/北へ求めねばならぬ/ /北方水準原点〉

*1:世界四大アニメーション映画祭のうち、応募可能だったもの全て。あと一つは二年に一度の開催となる広島。

*2:出典:東京新聞:詩の重みをアニメで表現 潮来の作家、クロアチアの映画祭で入賞:茨城(TOKYO Web)

『イディオリトミー』折笠良【99夜目】

昨日紹介した『Scripta volant』発表後まもなく、折笠は地元・茨城県のギャラリーで展示を行う。折笠はその期間中に、ある企画を行った。来場者へハガキに自由なイラストを描いてもらい、後ほどそれを集め、アニメーション化するというプロジェクトだった。

後日、完成した作品がインターネット上で公開された。タイトルは『イディオリトミー』。残念ながら現在は公開されていないけれど……本作には、昨日取り上げた折笠独自の「アニメーション」感が強く反映されている。来場者それぞれが、ほんとうに全く自由に描いたイラストレーションをなぞり、それが枚数を重ねることでゆらゆらと動いて「見え」、そして淡々と次のひとのイラストレーションへメタモルフォーゼしてゆく。基本的にはその繰り返しで構成されていた。

折笠がここで試みようとしていたのは、たぶんだけれど、「それぞれの人が描いた」イラストレーションを「なぞる」ことで、その人そのものをどうにかして「読み取ろう」とするような、そういう行為だったのではないか。何とか理解しようとする、あるいはひとつの愛おしい行動として、どうにか、どうにか。「それぞれの人々と(ある手段で)つながろうとする」、あるいは「それぞれの人々の独自性を掴みとろうとする」、その経過と試みと結果として、ひとつの結ばれたアニメーションが出来上がる。これを観る鑑賞者の心に浮かび上がるものといえば、もちろんーー他のどの作品とも違う、まさに折笠の作品からでしか得ることができない何か特別で、普遍的なものだ。たったひとりで、「アニメーション」というテクノロジーを通じて、手紙を読み解くという試み――。はるか昔を生きた考古学者と、同じように息をするような、僕にはそんな感じがした。こういうアニメーションも、あるのだ。

以下のURLで、本作の経緯が紹介されている。

orikasaryo.exblog.jp

『Scripta volant』折笠良【98夜目】

(昨日から微妙に続きます)一年がかりでアニメーションを製作して、そして挑んだ僕らの卒業制作展は――会期初日の14時46分で途中中断し、二度と再開されることはなかった。東日本大震災。余震が続く中で撤収作業をした。在庫の山になったカタログやDVDは処分するしかなかった。脈々と続く「卒業制作展」を台無しにし、先輩たちから受け取ったバトンを次に渡せなかった無念。そして発表の機会を失った作品たち……。紛れもなく、過去にも未来にもない学部史上最大の失敗だっただろう。あまりにも大きな喪失を抱えながら、わたしたちは卒業式をむかえることすらなく*1、世の中に出ていかなければならなかった。

5月、同じく中止に追い込まれていた東京藝術大学大学院アニメーション専攻の卒業制作展が、再度同じ会場で開催されることを知った。突き動かされるように観に行った。けれど……。僕がそのとき、「史上最悪の卒業制作展だ」と言っていたのは、まさにこの回のことだ。出展されていたアニメーションの内容がどれもとにかく重たかった。そしてしんどい作品ばかりだった。半数以上で自殺が描かれ、また半数では子どもたちが理不尽に傷つけられ、全体的に未来への不安や迷いや苦しみが、どっしりと漂っていた。会場から出てきたお客さんたちの、特にご年配の方や小さな子ども、お母さんのひとたちの……あの表情が忘れられない。大津波があって、原発事故があって、街は薄暗くて、余震は続いていて、なにか明るいものを、なにか忘れさせてくれるものを、なにか未来を指し示してくれるものを……と、「すごい!藝大生たちのアニメーションだって!」と期待して入ってきた、これらの文脈になじみの薄い一般のお客さんたちが、暗い表情で肩を落としながら馬車道を後にしていく姿が本当に悔しくて、そんな立場でもないくせに、自分にめちゃくちゃな怒りが湧き上がってきた。

今思えば……インディペンデントのアニメーションとしては、それほど偏った卒展の内容でもなかったと思う(植草さんの年でもあったし)。けれどなぜか、東日本大震災からわずか2ヶ月しか経っていない、まだ照明が暗い地下道をくぐり抜けて、何か明るいものを、何かアニメーションで明るいものを……と訪れていた人々に囲まれながらこれらの作品を見たときに、普段ならキャラクターが投身自殺しようが子どもたちが殴られ襲われようが言うほど気にならないのはずなのに……そういう要素だけが急に、不気味に生々しく自分の中で立ち上がってきてしまったのだ。もう、そういう時期だったのだろう。仕方がないといえばそうだ。そもそも卒制展に対してだって、結局どうしようもない嫉妬でしかなかった……。ぼくたちは卒業制作展が出来なかったのに、どうしてあなたたちだけは。震災後のみんなふさぎ込んでいたときに、ぼくたちならきっとお客さんに希望を届けることができたはずなのに、どうして……。

そのときに、Twitterで話しかけてきて下さったのが、この卒展で本作を出品されていた折笠(さん)だった。

折笠良は、他の人がどう言うかは判らないけれど、少なくとも自分にとっては――本当の意味で「完全に純粋で新しい」アニメーション作家だ。そして彼のフォロワーが将来現れない限りは、紛れもなく日本で唯一無二の存在だ。理由は簡単だ。彼のアニメーション制作のメソッドは、私たちのどのスタートからも異なっているからである。

「“アニメーション”とは、すなわち何か」。彼はアニメーション制作そのものを、テクノロジーとしてのアニメの元の元にある「コマ撮り」にまで遡って考える。1コマ1コマを、何かに「刻み付ける」ものだとする。そして出来上がったものを再生し、音楽やナレーションを加えた時に、はじめて立ち上がってくるものを“アニメーション作品”と呼ぶのだ。ご本人の考えとは違うかもだけれど、とにかく僕は折笠の作り方をそう理解している。そしてその上で、この作品を鑑賞して欲しい。

ユニークなアイデアは沢山ある。文字が鳥のように跳ねて、「幸福な王子さま」の像を形作り、涙のように零れ落ちて、そして鉛筆の痕跡が残り続けていく。読書体験をアニメーション化するとこうなるのかな、という理解は確かに合っている(と思う)。けれど後半、そして実は最初の1秒から――折笠がこの作品で達成しようとしていることは、そんな表層の表現からはるかに遠い場所にあることが判るだろう。

「幸福な王子」のテキストを、一文字一文字愚直に紙の上に描き出し、その文字すらも紙の上を滑り始めたとき、そこに*2浮かび上がるのはーーこのテキストを「読み解こう」とする、「さらに深く近づこう」とする、制作者の強い強い強い強い意識だ。文字を描き出すことで、アニメーションとして表すことで、作者はオスカー・ワイルドの「幸福な王子」により近づこうとする。アニメーションをつくる、という試みそのものが、あたかも宗教的な、あるいは何かシャーマン的な行為であるかのように。折笠の作品は、ヴィジュアルとして、ストーリーとして観る人を飽きさせないことも勿論素晴らしいけれど、この作品が、映像を通して「本当に」見ようとしているもの。より踏み込めば、一体「誰の」目線から映像を描こうと試みているかということ。この「アニメーションを通じて」行われようとしている、試みられようとしている、他の作品よりもさらにさらに大きな愛と敬愛と畏怖のまぐわい。もしあなたがこの作品を1度目でも、たとえ2度目でも鑑賞している途中で、そのことにふと気がつけたならばーー、アニメーションというテクノロジーが、普段見知るものよりもさらにさらに大きな可能性を秘めたものとして、そしてここで実際に成立していることに、頭が吹き飛んじゃうくらいの(まだ名前のついていない)感動を覚えるのではないだろうか。

その時の社会情勢によって、作品が明るく見えたり、暗く感じてしまったり……。けれど本当に時々、まったくそういうものから支配されずにただただ純粋にまっすぐと立ち上がる、まるであらかじめ大昔から作られていたような、途方もない存在の作品と出会えることがある。折笠(さん)は当時、僕の先ほどの卒展への捉え方を批判的にご指摘して下さった。今ならわかる。自分のあの時の見え方そのものに嘘偽りはなかったとしても……もっともっと、言葉も社会も時間すらも越えて、ただただ愛おしく対象を捉えるための、しなやかで強い「目」を持たなくてはいけないのだ。そして実際、折笠の作品には、そういう強さがあったのだ。

……とはいえ、初見の段階から、折笠のその文脈にまで自分が辿り着けていたわけではない。これ一本だけなら、「ユニークでグッと来る印象的な作品だなぁ……」くらいで終わっちゃうかもしれない。彼の作品を発表順で追ってゆくことで、その思考がさらに理解されやすくなるだろう。

*1:卒業式も「安全上の理由」で中止になった。当時、多くの大学で同じことがあったと記憶している。

*2:実は「スクリーンの上」、ですらなく!

『恐竜が死んだ日』倉岡研一【97夜目】


自分の話をします。多摩美の三年次で制作した、「物語に重きをおいたアニメーション」に多少の手ごたえを感じた僕は、次の1年がかりで作る卒業制作に、どうしても――40分間の長編アニメーションがやりたくなった。シナリオは(最終版とはかなり変わったけれど)原案段階のものが既にあった。あとは自分がやれるか、やれないかだった。けれど途方もない尺もそうだし……何より自分の絵は、周りから見ても極端にヘタクソだった。こんなもの作って卒業していいのだろうか? 他のみんなの何点も足りない自分が、そんな大背伸びをしたシナリオ重視のアニメーションを作ってもいいのだろうか……? そういうことで、途中から頭が一杯になってしまったのだ。卒制のプレゼンテーションは近づき始めていた。焦りと不安で縮み上がっていた。そんな時に、どういう経緯かさっぱり忘れちゃったけれど……たまたま出会った作品が、これだったのだ。

まるで子どもの夏休みの宿題のようなイラストレーション。力強くはかない少年のモノローグ。映画的な演出に、謎解きのように次々と見えてくる真実。そして描かれる、主人公にはあまりにもシビアな物語……。決してグラフィックの手数は多くない。けれどそれがまた「物語上の必然」となって、少年の心を、激しくせつなく見事に描き出していた。短い作品だが、観終えた後、ぼくの心の中にある言葉が去来した……「これでいいんだ」「やれる、できる」。作家が、この尺の中で伝えようとしていることが、やろうとしている意思が、激情が、はっきりと胸に迫る内容だった。語ろうとする言葉があれば、演出があれば、絵柄はきっと乗り越えてゆけるんだ。やろう。長い作品、やろう!!

今観れば、ほぼ同じようなことをドン・ハーツフェルトがさらにすごくやっていたわけだけれど(笑)……同じ学生で、しかも一度自分が行こうと思っていた大学の学部にいる方が*1、これほどのものを仕上げて来ていたことに何よりも励まされた。なんだ、ストーリーやってもいいんじゃん! この作品が踏み出していた一歩が、拙作『雨ふらば 風ふかば』を作り上げるときの、ぼくの大きな勇気になったのだ。

同じ作者さんの作品で、何か「幸福な王子」みたいな像が出てくる作品があったんだけれど、それはもうウェブ上にないみたいかな……。(ちなみに明日は、「幸福な王子」をアニメ化した作品を紹介します)

*1:作者の倉岡は東京工芸大学メディアアート表現学科出身。僕のかつての第一志望校だった。

『タイムライン』森田仁志・橋本新【96夜目】


唐突ですが! つい最近観た作品をここで紹介する。日本のミュージシャン・クラムボンが今年発表した楽曲「タイムライン」のMVだ。

ふしぎな形の「なにか」が、有機的になったり、無機物になったり、生き物のように見えたり、またそう見えなくなったり……。間違いがないのは、スクリーンの中でモチーフが絶えず変わり続けていることだ。ゆらゆらと流れる「なにか」はどれも優しい色彩で、心おだやかにゆったりと眺め続けることが出来る。抽象的で、でも時々非常に具象的で――けれどその一方、いわゆる抽象的なアニメーションによくあるような、「ついていけなくなる」瞬間がまるでない。その理由は実は明らかで、もちろんグラフィックや質感、色遣いや動きのセンスが見飽きさせないこともあるけれど――実は私たちが、一番最初から、これらが全て一体何について描いているかを、ちゃんと判ることが出来ているからだ。

この映像のクライマックスで、そして歌詞で、ああ、やっぱり、と私たちは思う。驚きはない。けれどその代わりに、これほど抽象的なグラフィックなのに――なぜか共有されていた「それ」に、わたしたちはまたどこか安堵することが出来るのだ。音楽自体も本当にすっばらしいんだけれど……、けっこう誰に見せても気に入って下さると思うんですよね、この作品は……。完全に新しくはないのかもしれないけれど、静かな傑作です。すっごく観返している……。あえて誘導するならば、本ブログでも取り上げた村本咲の『夜ごはんの時刻』と、同じテーマを描いていますよね……。

制作したのは、アニメーション作家の橋本新とクリエイティブ・チーム「TYMOTE」の森田仁志。

『RUNNINGMAN』児玉徹郎【95夜目】

さて、傑作『MY HOME』を発表した児玉徹郎について触れたい。児玉はいくつかの作品でCGアニメコンテストや、「デジスタ」の黄金期を支えた中心作家のひとりだった。「背景職人」を自称されていたこともあり、作品における背景美術はどれも素晴らしい。しかし同時に彼は、オリジナルワークでは特に「背景」をプッシュしたものを作ることはない。必ずキャラクターがあり、観客の目線は常にキャラクターやストーリーに向けられるよう設計されている。その力は発揮させつつも、「背景」は「背景」です、という辺りのバランス感覚は、個人的にはけっこう好きだ。その点を踏まえても、なんとなく建築家のようなイメージがある作家である。

そして、もうひとつの「児玉っぽさ」についても。こちらの『RUNNINGMAN』は、すごいぞ。なぜって、ここでも主人公がただのオッサンなのだ……!しかも「肥ったおじさんがジャージ姿で汗流しながらランニングしてるシーン」が実に尺の半分を占めているのである。これ、すごくない? 『MY HOME』もそうだけれど、間違いなく児玉の大きな個性のひとつがここにある。ある種の泥臭いモチーフを選びつつも、ささやかな日常をその背景の中に映し出し、小さな希望や愛について唄う。『RUNNINGMAN』の、問題が解決しているようであんまり解決していない(笑)クライマックスも、どちらかというと、わたしたちに物語を返してくれたもののように感じ取れるだろう。

児玉は2012年に「株式会社ECHOES(エコーズ)」を設立。現在もトゥーンベースの3DCGアニメーションを中心に、オリジナル作品*1やクライアント・ワークでその手腕を発揮している。つい最近だと、あの『プリキュア』のエンディングアニメーションを、初めて東映社外から受注し制作したことでも話題を集めた。オフィシャル・チャンネルからは、この映像が無料で配信されている。お、おじさんが一人も出てこないぞ!!

*1:最近だと結婚式のドタバタを描いた『Curly』など。

『MY HOME』児玉徹郎【94夜目】


突然ですが、新海誠たつき(irodori)、吉浦康裕に石田祐康までをも輩出した……日本で最も歴史の古いデジタルアニメーションコンテスト「CGアニメコンテスト」で、グランプリを獲る方法を教えよう。それ以前にも同コンテストはロマのフ比嘉などを輩出していたが、2000年(第12回)に新海誠の『彼女と彼女の猫』が受賞して以来、その後の17年間でグランプリは2本しか出ていない。一つは2011年(第23回)*1グランプリの『これくらいで歌う』(椙本晃佑)。そしてもうひとつが、2005年(第17回)グランプリの本作『MY HOME』(応募時名義:木霊)だ。

都会の冷たいマンションに囲まれた小さな緑地。そこへ集う3人の男――。あっけらかんとした男たちが、時に意外な特技を発揮させながら、夢の「MY HOME」へと挑んでゆく。2005年当時もわりとハイカラな印象だった3DCGや落ち着いた美術も魅力的だが、やはりまず驚かされるのが! この地味なオッサンたちを主人公に据えていることだろう(笑)少年でもない、美少女でもない、そんな彼らの生き生きとした表情が物語の推進力になり、視聴者へ「夢」を次々と届けてくれる。それが決して本物通りではなかったとしても……。ミュージックビデオ風に描かれているが、決して歌詞に寄り添いすぎることがなく、素晴らしいBGMとして音楽がしっかり機能している(いい声ですよね)。そしてある種、想像の範囲内である悲しい展開が、わたしたちの予想を大きく越える羽ばたきを見せるラストシーンはいつだって美しい! なんてこった! だ。こういうことがやりたいんだ僕は……。セリフもない、シンプルでゆったりとしたカット数で、特に難しい内容も何もないんだけれど、人生の普遍を、神様よりも大きな示唆を、この作品は最高の輝きをもって真空パックさせているのだ。こういうのが「泣ける」作品なのだと思う。もう、大好きです……。

そして、気が付いただろうか? 『彼女と彼女の猫』、『これくらいで歌う』、そして『MY HOME』――。この3本には極めて大きな共通点がある。作品のテーマがいずれも、ミクロな視点からマクロへと世界を広げる――とても暖かで真っ直ぐな「人間賛歌」になっているのだ。何度でも夢を描く、もう一度この世界のことを愛そうと思う、大地の上でわたしだけの唄を唄う……。生きてゆくということそのものの肯定が、人間の真の美しさが、少しの苦みも交えながら……あくまで等身大で、そして力強く描かれているのだ。過去、様々な作品がこのコンテストのグランプリ枠に挑んでいたが――確かにこの3本だけは、ストレートな「人間賛歌」という点でずば抜けていた。これなのだ! 何て素晴らしい評価軸なのだろう(と思うのは僕だけかもだが……)。そういうわけで、これから「CGアニメコンテスト」に応募する皆さん、グランプリを獲りたかったら……「人間賛歌」ですよ! 

*1:大変光栄なことに、拙作『雨ふらば 風ふかば』を入選させていただいた年でもある。

『公園のトロイ』matsumo【93夜目】


ここ数日取り上げてきたアニメーション作家・matsumoの、現時点で最新シリーズとなるのが『公園のトロイ』だ。FLASHベースだったこれまでの作品から、本作より完全にツールを移行させていて、全編が3DCGで制作されている。


この第三話と第五話、どちらを貼ろうか迷ったけれど……結局両方とも貼っておく。15年以上のキャリアの中で、本当にずーっと一環して作り続けられている、matsumoの作風がこの2本には詰まっている。見る人を楽しませること、あっと驚く仕掛けを加えてゆくこと、自分のなかの「美しい」を最大限の力でスクリーンに解き放つこと……そのどれもが、アニメーション制作にとって大切な、普遍の法則そのものだ。改めて(15年スパンでいえば)大きく途切れることなく作り続けている、そのアーティストとしてのバイタリティは、本当に尊敬に値する。そして実に内容がブレていない……第三話では『それいけ!おやぢ』と全く同じネタをやってて笑うし、第五話では『犬小屋の世界』から脈々と続くmatsumoの「夜空をどこまでも飛んでゆく」ロマンチズムが凝縮されている。こういう、たぶん多少ほっとかれていても(笑)どうしようもなく作り続けられてしまう、「しなやかで強い作家」こそ、もっともっと届くべきところに届いて欲しいと思うのだ。

matsumoは現在、熱狂の映像上映会「FRENZ」などで作品を発表。そして同人誌即売会コミティアでオリジナルアニメーションを発表するサークルが集う「アニメ部」にも毎年参加して下さっています。